2016年4月29日金曜日

マインドフルネスに関する5つの誤解(4)

この記事は、WEBメディア“Mindful”内の記事“5 things people get wrong about mindfulness”を和訳したものです。ご自身の瞑想やマインドフルネス活動の参考にしてください。

マインドフルネスに関する5つの誤解(1)はこちら
マインドフルネスに関する5つの誤解(2)  はこちら
マインドフルネスに関する5つの誤解(3)  はこちら



神話4:マインドフルネスは完璧な殺人者や完璧な資本主義者を作り上げるために用いられる

今日、マインドフルネスは数多くの実用的な文脈の中で語られています。ここで懸念されるのは、マインドフルネスがただの知力を向上させるための便利なトリックとして片づけられてしまうことです。より大きな懸念は、マインドフルネスがどのような形であれ倫理的な影響を無視して用いられることです。この懸念を口にする批評家たちは、マインドフルネスが倫理的な観点抜きで実践された結果、世界が標的を「マインドフルに」狙うスナイパーや、映画「ウォール街」に出てくるゴードン・ゲッコーのような、マインドフルで強欲な経営者だらけになるのではないかと憂慮しています。

 しかし純粋なマインドフルネスの実践はー教え方について適切な指導を受けた経験豊富な実践者から教わるのであればーマインドフルネスの本来の状態についての理解とともに伝わり、自然とより広い意識と知的好奇心を育てるものです。それにより、人は自身と他者、コミュニティ、社会、そしてこの惑星との相互の関係性を観察し、考えるようになります。マインドフルネスはまた、その場の勢いでの衝動的な選択の根底にある基本的な価値観についてあなたに再発見し、検討し、洗練させることもできます。

警察や軍隊用に開発されたマインドフルネスのプログラムは、彼らがよりよい判断をできるように、より衝動的でない行動ができるように、そして彼らの心身に生じたトラウマを軽減させるために神経システムを調整の仕方を教えることを目的としています。政治家が我々に代わっていかなる軍事上の選択をしたとしても、兵士が持ち場で冷静さを保つことができれば彼ら自身と他者をより傷つけずに済むのは明白です。加えて、彼らの兵士としての雇用期間は短いものです。彼ら兵士が市民としての生活に戻ったときにも、瞑想の実践は彼ら自身の性格、家族、そして社会に多大なる利益をもたらすことでしょう。これはマインドフルネスを軍人に指導する人たちが持つビジョンの根幹となる部分です。

職場でのマインドフルネスプログラムは、従業員の集中力を向上させることにより彼らの労働力をより搾取できるようにするための皮肉なツールでしかないと言う人たちもいます。この視点がこれらのプログラムに参加した人たちから語られることはほとんどありません。我々のほとんどはどこかで仕事をしていて、仕事をもっと楽しみたい、そしてもっといい仕事をしたいと考えているはずです。もちろん経営者は最終的な収益を重視します。でも大抵の場合、彼らは従業員が自分たちの仕事にやりがいを感じ、自分たちの職場を働きやすいと感じることが大事だということも承知しています。そして、従業員の健やかさを向上させるプログラムは従業員と雇用者双方に利益をもたらすのです。

 どんないいものでも間違って使用される可能性はあり、実際に間違って使用されることもあるでしょう。でも、マインドフルネスの実践がマインドフルな狙撃手やマインドフルな反社会的企業人といった怪物を作り上げるというのは、人々を扇動するデマにすぎません。「同性婚はやがて犬や猫との結婚につながる」といったような極端な言説は、それによって自分たちの信ずる何かに利益をもたらしたいと考える人が用いる閃光弾のようなものです。マインドフルネスのトレーニングは、あなたが下すべき倫理的な選択を代わりに決定するものではありません。それは、あなたがあなた自身のためによりそれらの選択をしやすくさせるものなのです。

<続く>

2016年4月3日日曜日

マインドフルネスに関する5つの誤解(3)

この記事は、WEBメディア“Mindful”内の記事“5 things people get wrong about mindfulness”を和訳したものです。ご自身の瞑想やマインドフルネス活動の参考にしてください。

マインドフルネスに関する5つの誤解(1)はこちら
マインドフルネスに関する5つの誤解(2)  はこちら


神話3:マインドフルネスはただの仏教の変形である

マインドフルネスは人類の基本的な遺伝的形質であり能力です。特定の組織や宗教、哲学に属するものではありません。マインドフルネスは、人類の心の資質として練習と規律をもってーバイオリンの技能を上達させるために継続的に練習を行ったり、ウェイトトレーニングで体を鍛えたりするのと同様にー育むことが可能です。仏教徒はマインドフルネスというテーマについて深く研究しており、仏教の教えは我々に無数の洞察を提示します。しかしそれは、イタリア人がパスタを、ギリシャ人が民主主義を所有していないのと同じで、仏教がマインドフルネスを所有しているということではないのです。

皮肉なことに、マインドフルネスと仏教の関係には2つほど懸念する点があります。仏教徒の中には、「仏教はにせもののマインドフルネスである」と言いがかりをつけられてマインドフルネスが仏教から奪い去られるのではないかと心配している人たちがいます。また、ある批評家たちは逆のことを懸念していますー例えば病院や学校などでマインドフルネスが扱われる場合、それは仏教入信への勧誘を虎視眈々と狙う仏教のステルスマーケティングなのではないかということです。これらの偏見は両方とも仏教とがっちり結びついています。マインドフルネスは仏教の中心となる実践ですが、ブッダはマインドフルネスを自らが発明したとは決して言わなかったでしょう。ニュートンが、引力は自分が発明したものだと言わなかったのと同じことです。

マインドフルネスを仏教の文脈から切り離すことは単純に間違っていると言う人もいます。彼らは、瞑想の実践を彼らが不可欠であると考える2つのサポート、倫理的な行動と知恵抜きで行うことは無意味であり、有害でさえあるかもしれないと主張します。しかし、倫理的(あるいは有益)な行動という概念、そしてものごとをクリアに見るということもまたブッダが発明したものではありませんし、慈悲深いブッダがそれらを閉鎖的なシステムの中にあるものだと見なすこともなかったでしょう。仏教徒ではない人々について、彼らが仏教徒ではないから他者と支え合って生きるということに気づかず、彼ら自身や彼らの属するコミュニティの中で倫理的なふるまいや知恵を見出だすこともないだろうと決めつけ、彼らが瞑想的な実践によりもたらされる利益を享受することを否定するのはフェアではありません。

 これまでの歴史の中で、「マインドフルネス」は幅広く用いられる言葉ではありませんでした。19世紀から20世紀初頭にかけて活動した翻訳家のT・W・リース・デヴィッド(T.W.Rhys Davids)がパーリ語の「サティ」、瞑想の実践において鍵となる要素の一つである仏教用語を英語で言い表すため「マインドフルネス」を用いることを決めたとき、ようやく使用が始まったのです。評論家の中には、この出来事が「マインドフルネス」の意味を「真に」確立したと言う人もいます。でも、言葉には「真の」意味などないものです。言葉は新たな文脈と出会って常に変化し成長していくものだからです。記号論は、具体的な言葉に適用するのには十分に強固です。しかしもし自分自身の心の動きを完璧に説明しようと試みたとしたら、あなたはきっと非常な混乱に陥るでしょう。言葉は万能ではないからです。
  
今日、「マインドフルネス」は「サティ」の英語表現というだけの言葉ではなくなっています。それは瞑想によって醸成される、慈愛を含む質や美徳を表す一般的な言葉となりつつあります。仏教は健全な、そして長きにわたるひたむきな瞑想の実践と、そこから導き出された世界へと貢献する洞察を持ちながら、なおも進化を続ける伝統です。しかし、マインドフルネスは人間が生まれながらに持つ資質であると同時に、実践によってさらに育むことが可能な質であり、誰でも活用することのできるオープンソースなのです。

(4)に続く