2015年12月26日土曜日

嫌なやつにマインドフルに接する方法

この記事は、WEBメディア“Mindful”内の記事“How to Mindfully Deal With Jerks”を和訳したものです。ご自身の瞑想やマインドフルネス活動の参考にしてください。


気難しい人々と接するときに、この親愛のエクササイズを試してみてください。それで気づいたことを観察してみましょう。




気難しい人たちと働くときに私が実践してきた、シンプルで、しかし非常にインパクトの強いエクササイズがあります。それはバランス感覚と「今ここ」の視点をもたらす、私にとっては鮮烈な方法です。

私は車の交通量が極めて多いことで知られるロサンゼルスに住んでいます。もし私たちがLAの平均的なドライバーの頭の中を覗き込むことができたら、私たちは過活動状態の扁桃体や、大量の血が前頭前皮質から出ていくのを見ることができるでしょう。言い換えると、LAのドライバーは感情的で高いストレスにさらされている気難しい人々の大集団なのです。

ある日、LAで車の運転をしているときに、私はスポーツカーに自分の前を遮られました。そのスポーツカーは、随分スピードを出し、車線を頻繁に変更しているようでした。私はといえば、歯を食いしばり、肩をこわばらせ、頭の中では高酸素療法の妥当性についてばかり考えていました。

でもその瞬間、私はいかに自分がピリピリしていて、そしていかにそのスポーツカーのドライバーが自制心を失った状態に近づいているかに気づきました。この発見は、私にそのとき路上にあったすべての車のこと、そしていかに大勢の人々が彼らの車の中でピリピリしているかを考えさせるものでした。このシンプルな発見が重要なことをひらめくきっかけとなったのです。

私の肩は幾分下がり、代わりに疑問が湧き上がってきました。「今この瞬間、私に本当に必要なのは何だろう?」
「安心感(ease)」という言葉が心の中に浮かびました。
なので、私はこう唱えたのです。
・「私は安心してもいい…」(私へ向けて)
・「あなたは安心してもいい…」(自制心を失ったスポーツカーのドライバーへ向けて)
・「私たちはみんな安心してもいい…」(路上のすべてのドライバーへ向けて)
このシンプルな3つのパートからなるエクササイズは30秒もかからない上に、私が遭遇したこのできごとを分離と怒りの経験からつながりとバランスの経験へと素早く変容させました。

私にとって幸せとは、何が私のところにやってきてもOKな状態でいられるような、確固たる内側の感覚を持っていることです。この実践は私にその感覚を与えてくれました。このエクササイズで私は、他のドライバーをただ路上にいる厄介者(言い換えれば物)として見る視点を超越し、代わりに人として見る視点を得ました。そして、これは私が本当にOKだと思える経験となりました。


運転中に実験しなくてもいいので、気難しい人々と接するときにこの親愛のエクササイズを試し、それによって起こる心境の変化を観察してみることを強くお勧めします。
<おわり>


2015年12月23日水曜日

日本人の幸福観向上を狙うには






筆者は2013年夏から都合2年間フィリピンに在住していました(最初の8ヶ月はセブ島,後半1年半は首都マニラです)。筆者の元々の専門は,メンタルヘルス(うつ)やモチベーションなどポジティブとネガティブの間で揺れ動く感情のため,グローバル人材の育成や,日系企業の人事管理で滞在していたフィリピンでもフィリピン人の根明で人懐っこい国民性,そして収入があまり高くなくても,場合によっては仕事がなくても笑顔で幸せそうに見える様を日本人との対比で興味深く見ていました。フィリピンでは鬱や自殺という話を聞きませんので。

近年,ポジティブ心理学の発展で,幸福観の研究も先進国を中心に多くされるようになってきています(前野, 2013)。日本はというと,国際比較の中ではそれなりの幸福度のスコアを出していますが,失業率の問題もなく一人当たりGDPも高い先進国よりは低く,幾つかの一人当たりGDPが低い国よりもスコアが低くなっています。そして,現状の経済生活には不満を持つ人も多いようです(前野,同上)

世界3位の経済大国ですが,1990年以降,失われた10年など経済においては暗い話題が続いており,そんな中,経済的には発展していない,しかし,笑顔が弾ける国民性のフィリピン人のエッセンスを少しでも明らかにし,なんらか日本人あるいは世界の人々の役に立てないかというのが本稿の目的で,企画意図です。

単純に比較して,日本とフィリピンの違いで幸福観の違いに影響しそうな要素を列挙します。個人の人格や価値観に影響を与える要素として,例えば,カソリックがメインの宗教(一部イスラムもあり。日曜に教会に行き,懺悔するとその週の反省すべきことは水に流されるという文化。),南国(暖かいので家がなく,路上で寝ていても死なない,自生のマンゴーを取って食べていれば餓死しない),家族主義(カソリックの影響?仕事がなくても大家族の誰かが食べさせてくれる)等々。

反省を重んじる儒教仏教文化で寒さの厳しい地方もあり,核家族化が進んでいる日本とは違う要素はいくらでもありそうです。

一体,どこに核となる違いがあるのでしょうか?そして,それは何か後天的にでも習得できる要素なのでしょうか?

8月下旬に,フィリピンを含めた東南アジアに予備調査に行ってきましたので,その中で気づいたこと,明らかになったことを次回以降報告していきたいと思います。


2015年12月19日土曜日

心の平静さ(後半)

この記事はEquanimity (adapted from a talk by Gil Fronsdal,May 29th 2004)の後半を訳したものです。(前半はこちら)ご自身の瞑想やマインドフルネス活動の参考にしてください。



平静さの3つ目のサポートとなるのは、十分に育まれた心です。私たちはジムで身体的な強さ、バランス、安定性を鍛えますが、それと同様に内面的な強さ、バランス、安定性も育むことができるのです。これは、穏やかさ、集中力、そしてマインドフルネスの感覚を養う練習により可能となります。心が穏やかなとき、私たちはより世間の風に吹き飛ばされにくくなります。

4つ目のサポートは健やかさの感覚です。健やかさの感覚を放っておくことはありません。仏教では、健やかさの感覚を育み伸ばすのは適切で役に立つ行いだとされてきました。私たちは、日々の生活で簡単に得られる健やかさの感覚を見落としがちです。日常生活の中でお茶をゆっくり飲む、あるいは夕焼けを眺めるといった時間を取ることでも健やかさの感覚を学ぶことはできるのです。

平穏さの5つ目のサポートとなるものは、理解や知恵です。知恵は、どのようなことが起きても思考や感情の委縮や抵抗なくあるために、心を開いて受けとめる感覚を学ぶのに重要な要素です。知恵は私たちに人々の存在と行動を切り離して見ることを教えます。私たちは彼らの行動に賛成でも反対でも、彼らとの関係においてバランスを保つことができるのです。同時に、私たち自身の考えや欲求が私たちの個性に関係ない、コンディションによるものだということを理解することもできます。思考や欲求をそんなに自分固有のものだと捉えないようにすることで、それらが湧きあがってきたときにももっと楽な気持ちでいることができるでしょう。

平静さを支えるための別の知恵の使い方は、他人の苦難に直面したときにも心に平静さを見出す助けとなる、人は自身の決定に自身で責任を持っているということへの理解です。私たちは、彼らの幸運を祈りつつ、自分が彼らの幸せの責任を負っているという間違った感覚により生じる苦悩を避けてもよいのです。

より容易に平静でいられるために知恵を使う最もパワフルな方法の1つは、平静さを欠いたときにマインドフルでいることです。バランスを失わせるものごとに対しての自分の正直な感覚を認めることは、いかにバランスを見出だすかを学ぶ助けとなります。

6つ目のサポートは洞察、ものごとのありのままの本質を鋭く見抜くことです。洞察において最も重要なものの1つは、無常観です。この洞察を極めると、私たちは、ものごとはすごい速さで変化するので私たちがずっと保ち続けられるものは何もないことを理解し、最終的に執着を手放すことができるようになります。手放す感覚は平静さをもたらします。思い切って手放せば手放すほど、深く平静さを得ることができるのです。

最後のサポートは、私たちができごとに過敏に反応するくせを手放すことで得られる、自由の感覚です。私たちは、以前自分の心が反応したものごとに今の自分がもう反応しないことに気づいたとき、この感覚の意味するところを理解することができます。例えば、10代のころに私たちをひどく混乱させたことがらが、大人になった今ではもう心に何の反応も引き起こさないことがあります。仏教の実践では、人生の中で心が自由でいる領域を広げるためにさまざまなことを行います。


1つは観察力、もう1つは心のバランスがもたらすこれら2つの平静さのかたちは、マインドフルネスの実践で一体となります。マインドフルネスの感覚が強まるにつれ、平静さの感覚も確かなものとなります。私たちは大いなる自立と自由の感覚を持ってものごとを見るようになるでしょう。そして同時に、平静さはものごとの渦中にいてもバランスを保ち続けられる内面の強さとなっていくはずです。
<おわり>

2015年12月11日金曜日

心の平静さ(前半)

この記事はEquanimity (adapted from a talk by Gil Fronsdal,May 29th 2004)の前半を訳したものです。ご自身の瞑想やマインドフルネス活動の参考にしてください。



平静さは仏教の実践の中で最も素晴らしい感情の一つです。平静さは知恵と自由に根ざし、慈愛と愛の感覚を守るものです。この状態をドライな中立性や冷たくよそよそしい態度と捉える人もいるかもしれませんが、成熟した平静は存在の輝きとあたたかみを産み出します。ブッダは平静さに満ちた心のことを「敵意や憎悪のない、豊かで、高揚し、無限の」状態と説明しています。

英語の「equanimity(平静さ)」はブッダが用いたパーリ語の異なる2つの単語を訳したものです。それぞれ平静さの異なる要素を表します。
equanimityと訳される最も一般的なパーリ語はupekkha(ウペッカー、仏教用語では「捨」)で、意味は「見渡すこと」です。これは、平静さが観察力、自分の見ているものに囚われずに見ることのできる能力から生まれることを表しています。その力は、十分に発達したときに大いなる平穏をもたらします。

upekkhaは広い視点を持つことで生まれる平らかさも表しています。インドでは、口語表現において「忍耐力をもって見ること」という意味でこの言葉が使われます。私たちはこれを「ものごとの本質を理解しながら見ること」と理解してもよいでしょう。例えば、私たちが誰かの言葉を攻撃的なものとして曲解せず受けとめることを知っていたら、言われたことに過度に反応することが少なくなるでしょう。その代わりに、私たちは安心感と心の落ち着きを保つことができます。この平静な状態はしばしば祖母的な愛情と比較されます。祖母が孫を愛していることは明確ですが、彼女は自身の子どもとの経験に感謝の気持ちを抱き、孫の人生ドラマに親よりも囚われずにいることができます。

2番目によくequanimityと訳されるパーリ語はtatramajjhattata(仏教用語で「中捨」)で、これはいくつかのパーリ語の単語の組み合わせでできている言葉です。tatraは「そこ」という意味で、しばしば「すべてのものごと」を表します。majjhaは「中間」を表し、tataは「立つ、あるいは止まる」ことを表します。まとめると、「ものごとの中間に立つ」という意味の言葉になります。平静さのかたちとして、「中間にいる」ことは、平衡を保ち、何が起こってもものごとの中間に位置しつづけることを表します。この平衡感覚は内側の強さや安定感から来るものです。内面の穏やかさ、健やかさ、自信、生命力、あるいは全一なる感覚の強固な存在感は、強風の中でも船をまっすぐに保つバラストのように、私たちをまっすぐに保ってくれます。内面的な強さを育めば、平静さは後からついてくるのです。

平静さは「俗世の8つの風」、賞賛と非難、成功と失敗、喜びと苦痛、名声と悪評からの防護の役割を果たします。成功や賞賛、名声や喜びに執着したり、過度に高揚したりすることは、人生において方向転換の風が吹くときに悩みを呼び込む元となります。例えば成功は素晴らしいものですが、それが傲慢さにつながったとしたら、私たちは未来でのチャレンジで失敗する可能性が高くなるでしょう。

賞賛を得るのに没頭することは虚栄心につながる可能性があります。自分が何かにつけ失敗と感じていると、私たちは自分のことを無能で無力だと感じるようになるでしょう。また、苦痛に反応してばかりいると、私たちはどんどんやる気を失ってしまいます。もし私たちが、自分たちの内面の健やかさはこれらの8つの風から独立したものだと理解し、あるいは感じていたら、風の最中にいても自分の中心をより保っていられるでしょう。

平静さを養う一つの方法は、平静をサポートする心の質を育むことです。後述する7つの心の質が平静さを養うのに役に立ちます。

1つ目は美徳、あるいは全一なる感覚です。私たちが全一なる感覚とともに生き、ふるまうとき、私たちは自分の言動に確信を持つことができ、それは結果として批判のない平静さをもたらします。いにしえの仏教の経典は、いかなる集団の中にいても批判のない感覚を持つことができることを説いています。

平静さの2つ目のサポートとなるものは信念から来る確信の感覚です。いかなる種類の信念も平静さをもたらしますが、知恵に根ざした信念はとりわけパワフルなものです。パーリ語では信念のことをsaddha(仏教用語では「信」)と言い、やはり確信や自信と訳されます。私たちが確信を持っていたとしたら、例えばスピリチュアルな実践に関わる能力に確信を持っていたら、もっとチャレンジに平静さを持って臨むことができるでしょう。

後半に続く>